ジャン=ピエール・プチ(Jean-Pierre Petit)
はじめに
本記事は、物理学者、ジャン=ピエール・プチ氏(以下プチ氏)のプロフィール説明となります。フランス語が堪能な方は、
こちらから原文をお読みいただけます。なお、本記事はその原文に限らない説明もございますことをご了承ください。
生涯
生い立ち
1937年にフランスに生まれる。ナチス・ドイツのフランス侵攻時には3歳で、既に家庭が崩壊しており、父親は母国スペインに帰国。そのまま父親に見捨てられ、母親の再婚による姓の変更、経済的制約、父親の不在に苦悩を強いられた。
高校時代
暮らし
プチ氏は10代の頃、スキューバダイビングに出会い、友人のロジェ・プーランと共に、マルセイユ沖の沈没船ドローム号の60メートル下に潜り、ロブスターを採取したこともあった。下の写真は1950年代後半、マルセイユの東端にあるレ・グード近くの小さな港、クロワゼットで撮影された。右がプチ氏。白い「ボブ」は友人のプードヴィーニュ氏。プチ氏は夏、頻繁にそこで冒険的な生活を送った。
また、難破船を探す旅にて、のちの半世紀にわたる友人、ジャンとの出会いもあり、さまざまな崖、建物を登った。
学業
当時、医学はプチ氏にとって魅力的だったが、データを記憶する能力の欠如がその道を断たせた。彼は文章を書くのは上手だが、スペルミスがひどく、分詞の一致に苦労するのと同じくらい、化学元素の暗記にも苦手意識を持っていた。
高校での3年間、プチ氏は惨めなほど苦労した。数学が退屈で仕方がなく、最初の数学のテストでは最下位だった。一方、彼は記述幾何学に優れており、教師が問題文を定式化するとすぐに 2 つの面の交差を描くことができた。彼の「3D」視覚は、彼の描画スキルと結びついて並外れたものであったが、当時、こうした描画テストは学校の生徒にとって悪夢であった。
さらに、彼は高校の外ではあまりにも多くのことに興味があり、散漫が目立った。彼の気をそらす能力は伝説的だ。ある日、7時に目覚まし時計が鳴り、急いで荷物をまとめ、ペレール広場で地下鉄に乗り、アーヴル通りにある高校に向かったが、そこには誰もおらず、黒板に練習問題の復習を始めたものの、実際には8時ではなく、20時だったこともあった。
パリ国立高等航空宇宙学校時代
暮らし
プチ氏は3年間、プログラムの科目をざっと学び、特に流体力学など興味のある科目についてはさらに深く学ぶ。その後、図書館を訪問し、プログラムの内容をはるかに超えたこの分野の知識を習得。またプチ氏は学校の仲間たちと共に、『いたずら・ジョークの高等弁務官』を率い、その活動によって学校の運営陣は頭を悩ませた。
研究への熱意・最初の発明
勉強よりも研究にのめり込み、地下室に流体力学の実験室を設け、逆転地面効果(後にベルタンが「フィックス・トロンプ」と改名して特許を取得)を発見。
(彼の漫画『Si on Volait?』参照)
そして獲得した確かな理論的知識に助けられ、最初の超音速ディスクノズルの計算と実験を行う。数十分の一ミリメートルの厚さのスリットを通して、滑らかな壁の接線方向に高圧下で噴出される極超音速の薄い空気のジェットの逆説的な側面を研究。
流体力学の教授は、プチ氏が水銀圧力計を使って、直径7センチのディスクノズルからシューという音だけを発し、円形の静止衝撃波を作り出している様子を見せたとき、驚いた。高さは数十分の一ミリであった。
しかしうるさい監督、ヴァルロジェ将軍に呼び出され、こう告げられる。
- あなたは研究をするためにここに来たのではない。もしあなたがそう主張するなら、あなたはプログラムの他の科目を怠ることになり、私たちはあなたに留年を強いることになります。
と。
当時のJ.P.プチ氏
研究から離れた卒業後
卒業後、自身のアイデアにしか興味がないプチ氏にとって、出版や博士論文といった研究者へのステップは頭の中になく、研究者のなり方を知らなかった。
プリンストン大学からの招待
その後、1961年に当時ボグダノフ教授が所長を務めていたプリンストンのジェームズ・フォレスタル・センターで1年間過ごすよう招待される。
研究所に着いたプチ氏は、昼食中で誰も居ない「立ち入り禁止区域、許可された人のみ」と書かれた標識を無視し、中央の「ターボプロップ」エンジンで駆動する直径 9 メートルの空飛ぶ円盤を見つけ、それをボグダノフに言ったことで帰らされることとなった。空軍との契約に基づいて行われた極秘研究だったのだ。
彼はニューヨークの路上で無一文になり、通行人に絵を売って生活費と帰りの切符を稼いだ。
入隊
プチ氏は兵役延期を取り消し、少尉として兵役に就く。ドイツのフライブルクに配属された彼は、到着するとすぐに空軍基地の司令官大佐に連絡を取った。
- 大佐、私は文書の暗号化を担当しています。しかし、基地に駐留する軍のグライダー部隊の指揮官である大尉が異動になったばかりだと知りました。私は現在、高等航空学校を卒業しており、グライダーパイロットの資格を持っています。
- ふーん、
とグライダー愛好家の大佐は答える。プチ氏の理解が正しければ、軍のグライダーセンターの優秀なリーダーか、暗号が苦手な士官のどちらかを選ぶことになっていた。
彼は前者を取った。
プリンストンでの不運な出来事のせいで、プチ氏は数年間研究から遠ざかることとなった。軍務から解放された彼は、その後、スキューバダイビング、石版印刷、登山、鉄工、遅延開放型パラシュート降下などに時間を費やした。
研究への復帰
その後、火薬ロケット試験センター(当時はSEPR、後にSEPとなった「反応推進研究所」)に雇われ、固体燃料で作動するこのタイプのスラスターのテストを担当した。
しかしすぐに飽き、数か月後、上司がプチ氏を潜水艦から発射するように設計された核ミサイル MSBS の開発に配属することを検討したとき、辞職。
CNRSとMHD
その後、マルセイユの流体力学研究所のCNRSに移り、MHD(磁気流体力学)発電に注力する。
当時、発電効率が40%の火力発電に対し、60%のMHD発電は高効率で、且つ原発と違って廊下に収まるサイズであったが、当時のMHD発電機は技術的に安定して稼働するタングステンフィラメントの耐久値2500℃には程遠く、1万℃ほどであった。
また、ヴェリホフの予言した「ヴェリホフ不安定性」を理解していた研究者は殆どいなかった。
1966年、プチ氏は計算に没頭し、数か月で当時の知識を吸収したのちの最初の試みが成功した。プチ氏の開発した発電機は従来の1万℃を遥かに下回り、電子ガスの温度(1万℃)を維持したまま、一朝のうちに6千℃まで降下した。(1967年の学会発表では4千℃)
プチ氏はヴェリホフの不安定の「回避策」を見つけたが、そのトリックは日本人によって再発見されるまで15年もかかった。
当時研究所所長だった、今は亡きヴァレンシは、プチ氏から運営管理を引き継ぎ、この研究契約の管理を従順なベルナール・フォンテーヌに委託することを決定したが、残念なことに、誤った操作中に、彼はプチ氏が想像した複雑な機械の重要な要素を知らないうちに破壊してしまった。
プチ氏はCNRSに残ることを決めたが、実験的研究はあきらめ、マルセイユの流体力学研究所を去ることになった。彼は純粋理論にますます傾倒し、気体の運動論と宇宙物理学を学び、1974年、マルセイユ天文台に着任。マルセイユの天文台で所長のギー・モネとしばらく働いた後、モネはリヨンの天文台の責任者になった。
活動を広げたプチ氏
1975年から1987年にかけての期間は、プチ氏のキャリアにおいて一つの段階を形成している。この期間については彼自身が出版した著書で十分に述べられているとされており、その過程で彼は「国家の都合」という概念が科学の分野にも存在することを発見する。1980年代後半、彼は方針を転換し、理論宇宙論に再挑戦し、1990年代半ばには数学の分野にも進出。
1965年、彼は『スピルー』誌において、『マキシフロンの旅』と『マエルストロームの秘密』という2本の漫画を発表し、収入を補うための手段として活用。1979年には、ベルラン出版から『アンスルム・ランチュルの冒険』シリーズの最初の3巻を発表。
宇宙飛行士応募書類
プチ氏の人生におけるエピソードの中でも、特異なものが一つある。1979年、同僚たちはエクス(Aix-en-Provence)にあるプチ氏の自宅に、宇宙飛行士のポストへの応募書類を送ってきた。これはフランスの宇宙機関CNESが実施した選考であり、その結果として軍関係者である2人の候補者が選ばれた。当局がどのような選択をするかについてほとんど幻想を抱いていなかったプチ氏は「理念として」この応募に応じ、その結果、次のようなメッセージを受け取った:
認定医師による「フライト要員」診察にて
1975年
ApppleⅡとの出会い
プチ氏は1976年に労働災害に遭い、77年から83年までエクスアンプロヴァンスの文学部に創設したマイクロコンピューティングセンターの所長を務めた。その過程で、彼はマイクロコンピュータ上で動作する最初の CAD プログラムである Pangraphe を作成した。(映像:https://www.jp-petit.org/images/images_homepage/mcdc_ok.gif)
ヤヌス・コスモロジカル・モデル / ヤヌスモデル
プチ氏が1980年代後半から始めた宇宙論は、ヤヌス宇宙理論、ヤヌスモデル、双子の宇宙論などと呼ばれることもある。以下、彼の理論の
ホームページからの引用。
ヤヌス宇宙モデル (Janus Cosmological Model, JCM) は、宇宙をリーマン多様体として記述し、正の質量と負の質量を一般相対性理論の枠内で矛盾なく扱うための2つの異なる計量を用いるモデルです。この理論は、最新の観測データと非常に良い一致を示しており、査読付きの学術誌に発表されています。
ヤヌス宇宙モデルは、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論、アンドレイ・サハロフの粒子物理学と宇宙論に関する研究、そしてジャン=マリー・スリューのシンプレクティック幾何学に関する研究を統合しています。
この理論は1977年にフランスの物理学者ジャン=ピエール・プチによって初めて提唱されました。当初は非相対論的なモデル(ニュートン力学)として、時間の矢が反対向きの2つの鏡像宇宙を考える「双子宇宙理論」として出発しました。
1988年には、著者は宇宙論において初めて「光速の変動 (Variable Speed of Light, VSL)」を導入し、普遍的なゲージ関係に従った全ての物理定数の共同変動としてこの概念を提示しました。これにより、物理法則は不変のまま維持され、インフレーション仮説に挑戦する新たな解決策を提示しました。
1994年には、これらの理論は光速変動を伴う相対論的な二重計量の重力モデルとして統合されました。
2000年代には、動的群論の導入により、時間反転がエネルギーと質量の反転を伴う理由が説明されました。これは、ポアンカレ群の完全形から派生する粒子の基本的性質です。
2010年代には、現代的な理論的発展により、ヤヌス宇宙モデルが確立されました。このモデルは、同時に未来と過去を見つめるローマ神話の双面の神「ヤヌス」にちなんで名付けられました。
このモデルはまた、負のエネルギー状態が量子力学と整合性を持つことを示しています。
ヤヌスモデルの2つの結合場方程式は、アインシュタイン場方程式の微分形式から、カルタンの同値法とホッジスター演算子を用いて独立に導出されています。
また、査読付きの学術誌とは、最新の論文で言えば、
EPJ-Cなどのことを指す。(詳しくは
この動画を参照。)
しかし、本来はもっと取り上げられるべき彼の名前と業績がなぜ広まらないかと言えば、それは現在の科学界との軋轢があるからだ。プチ氏の理論は観測結果と完全に一致し、現在の物理学の謎を矛盾なく説明できるが、それ故に他の著名な科学者の業績が虚構だったことになる。それについては、「ヤヌスモデルとは」で触れることにする。
影響力について
プチ氏は20年間で30冊の本を出版し、約40の言語に翻訳されている(2025年1月現在)
しかし、フランスでは、彼のトラブルメーカーとしての側面が、いくつかの困難につながっている。双子の宇宙に関する彼の研究は、最終的に恒星間旅行を可能にする可能性があるため、懸念されている。密な空気の中を超音速で移動できる円盤状の空気力学に関する彼の研究(1987年のルブラン論文)については、言及するまでもない。
98年、プチ氏は、群論に基づく宇宙物理学と理論宇宙論の研究があまりにも洗練されすぎて、これらの分野の専門家であるはずの人々に理解されなくなっていることに気づく。逆に、彼は数学者や幾何学者からの人気が高まっていた。
その他
その他にも、エジプト考古学や漫画の執筆、非営利団体の運営など、現在も精力的に活動中。他の研究者との意外な関係ややり取り、背景については
原文を推奨。
最後に
ジャン=ピエール・プチ博士の生涯、詳しい技術的・理論的・研究者的背景についてさらに詳しく知りたい場合、繰り返しにはなりますが、
原文を読むことをお勧めいたします。
本サイトのプロフィールから、YouTubeチャンネルにアクセスできます。そちらには今後、プチ博士によるヤヌスモデルの説明の日本語吹き替えがアップロードされる予定です。
ご興味を持たれた方は、ぜひ当サイト及びチャンネルをご活用ください。
2025.01.19
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